暑さのせいだろうか。
それは一昨日の夜10時頃にある映像が頭に突然湧いてきた。
その映像は「江戸川乱歩」の小説の表紙の絵だった。
なぜ「江戸川乱歩」のあの映像が浮かんで来たんだろう。
人間はある条件を満たしたときに過去の記憶を思い出すようだ。
それは五感が刺激された時に現れる。
五感の中でも嗅覚が最も記憶を喚起するきっかけになるのではないだろうか。
外を歩いている時に民家から漂ってくる洗濯物や夕飯の匂い。
すれ違った人の柔軟剤や香水匂いは過去に気持ちを寄せた人の記憶を呼び起こす。
よみがえった記憶は、感情も一緒に連れてくる。
懐かしさや切なさや喜びや
その暑い夜に、突然頭に沸いた「江戸川乱歩」の表紙の絵。
それは私の過去の記憶と結びついていた。
私の小学校の暑い頃の記憶
そう、こんなやつ。ああ、なんでこの表紙に私の心は揺さぶられるのだろう。
私の小学生の頃は、今のようにスマホや携帯はなく、ゲーム機も家には置いてなかった。それでも当然なんら不自由を感じることはなかった。
私はどちらかというと活発な子供でよく外で友達と野球をしたりサッカーをしたり町内を探検したりしていた。勉強はまともにやった記憶がない。
夏休みの宿題はギリギリに手を付け、始業式の直前になって残りの分量に挫折しそのまま投稿して学校の先生によく怒られた。
学校での生活は休み時間のチャイムがなると体育館に直行した。リスのように軽快な走りで体育館に直行した。だいたいドッジボールをやる。休み時間にはドッチボールかサッカーしかしていなかったような気もする。ああ一時期、砂団子作りに没頭したこともあったな。石灰などを使って誰が一番固い砂団子を作れるか友達と競い合ったりもした。
速いボールを投げるか、固い団子を作るか。それが私の小学校時代にはとても大切なことで生活の大部分を占めていたような気がする。
行動を共にする男子とまれに一部の女子も加わって熱中していた。当時私の友達以外の子供たちは一体何をして休み時間を過ごしていたんだろうか。
そんなある時、県外から転校生の少女が現れた。
明らかに異質の空気を放っていた。周りの早いボールを投げるか固い団子を作るかしか考えていない連中とはまるで違う都会の洗練された輝きをその少女は身に着けていた。
男子たちがざわついたのは言うまでもない。その少女は飛びぬけていた。
男子たちはみんなこういう顔でその少女を見ていた。最初のうちは。
その少女はオーラだけではない。成績も抜群に良かった。当時成績トップの秀才君(一緒に砂団子を作ることはしない)がいたが、その彼よりも良かった。
字も綺麗だったし絵も上手だった。学校の習字や写生会では必ず賞をとった。
ピアノも弾いたし夏休みの自由研究はベートヴェンについてだった。
それだけではない。その少女は性格までよかった。授業では積極的に発言をしたし、いつも明るく誰に対しても分け隔てなく優しく接していた。休み時間には一緒にドッヂボールもしたし欠点が見つからない。たまに喧嘩をして泣いたりもしていたけどそういうところも人間味があって輝いていた。
そんな彼女はすぐにみんなの人気者になった。もしかしたら一部の女子から嫉妬の対象になっていたかもしれないが。
あるときクラスの男子が大勢のクラスメートがいる前でいたずらっぽくちょっかいをかけていた。
「おまえ、誰のことが好きなん?」
その少女はひるむことなく笑顔でこう言った。
「私、みんなのことが好き。」
さらっとこう言ってのけた。もうだいぶ昔のことだがはっきり覚えている。普通恥ずかしがって言葉を濁したりするもんだと思うが、なんの嫌味もなく彼女はこういった。
もうお手上げだ。どうやったらこういう子供が育つのか、未だに不思議に思う。
私はその少女の事はその時どう思っていたのかというと、一言で言えば好きだった。でもそれは恋愛感情のような子供にとっては危険なナイフのようなものではなく純粋にキラキラ輝く砂に心を惹かれるような感覚だった。憧れに近いかもしれない。彼女の事で胸を痛めたことはない。
しかし・・・
当時私の成績はまあ普通で、運動神経だけは人一倍あって常にクラスでは一番だった。歳の離れた兄が2人いてよく一緒に遊んでいたこともあって、運動だけは他の子よりも出来た。体育の時間は好きだったし、休み時間はもっと大好きだった。勉強するのは嫌いで成績はよくなくてもいいやって開き直っていた。あの頃は足が速いだけでまわりからちやほやされる時期だ。もしかしたらあの頃自分に対して羨望の目で見ていたクラスメートもいたかもしれない。あの頃は一切周りの目を気にするということがなくて猿のように行動したい衝動を素直に発散していたように思う。あとなぜか図工の時間に絵を書いたり彫刻を作ったりするのは得意だった。砂団子を熱中して作っていたせいだろうか。
そんな能天気な少年だった私だが、その少女の出現によって自分の中で何かが変わった。
それは休み時間だったと記憶しているが、先生に用事をお願いされて私は図書室に行った。図書室は当時の自分には無縁の場所だった。本を読む習慣がまるでなかったからだ。読みたいとも思わなかったし本を読む時間があるなら砂団子を作っていたと思う。
図書室には何人かの生徒がいて本を読んでいた。いつもならその光景に対して何を思うこともなくただ用事を済ませて体育館に直行していたはずなのにその時は違った。
そこにあの少女がいたのだ。彼女はそこで他の生徒と同じように本を読んでいた。他の生徒が本を読んでいても何も気に留めることはないのだが、あの少女が本を読んでいることを知って私の心が動いたのだ。
こんな顔をしていたかも知れない。
彼女は江戸川乱歩を読んでいた。彼女は足を組んで本を読んでいた。
友達が足を組んで江戸川乱歩を読んでいる姿を見た時の私の衝撃を想像できるだろうか。
小学4年生の女の子が足を組んで本を読んでいる。
「この本、面白いよ。もうだいたい読んだよ。」
「へぇーーーーー。」
気の抜けたような返事をしながら、江戸川乱歩の本の表紙を見つめていたような記憶がある。
それから私は江戸川乱歩の本の表紙を図書室で見るたびに、心がざわついた。絵だけではない。そのタイトルにも私はどんどん魅了されていった。
ゾクゾクした。
それまで体育館か校庭しか知らなかった10歳足らずの自分の知らない世界がそこにあった。
私はそれからこっそりと図書館に足を踏み入れ、一番奥の壁際の棚に向かった。
なんなんだ、この世界観は。。。
エアコンの効いた図書館には涼しい顔で何人かの生徒が本を読んでいる。その中にはあの少女にいて、足を組んで本を読んでいる。
私はドキドキしていた。そしてやはりこっそりと少年探偵シリーズの方へと足を向ける。
怖い。私は恐怖に打ち震えた。でも見ずにはいられない。
私は本を手に取ってただただその表紙を見ていた。
周りの生徒と席を並べて、涼しくページをめくることはしなかった。
ただ本の表紙だけを見ていた。
図書室の奥の方でこっそりと。
うーーー、たまらない。
あの少女は私と図書質の奥にある世界とを結びつけてしまった。
私の想像がすごい勢いで膨らんでいく。10歳足らずの砂団子少年にとってその刺激は強かった。
冒険心をこれでもかとくすぐって来る。江戸川乱歩の世界観。
私はそののちも、タイミングを見計らっては人知れず図書館の奥の方で一人スリルを味わっていた。
今思えばあの図書室での出来事が私の大きな原体験になっているのかもしれない。
私の小学生時代は砂団子から江戸川乱歩に少しずつ移り変わりなんとなく終わりを迎えた。
そのタイミングであの少女はどこか遠くに引っ越していった。
あの足を組んで江戸川乱歩を読んでいた少女。
今も元気でいるだろうか。
そんなことをある暑い夏の夜に思い出した。
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