6月も終わりに近づき、これから夏本番ですね。
というわけで映画「ドライブマイカー」を見ることにしました。(まったく持って関連性はありません。)ところで「ドライブマイカー」語呂がいいと思いませんか?
「ドライブ・マイ・カー」
それ言いたかっただけやろ!って定番の突っ込みがありますが、これ、ネイティブ風に言いたくなります。
「ドライブ・マイ・カァー」
のっけからこの映画を軽く扱ってしまいましたが、そんなことをしていたらバチがあたるくらいにこの映画は実に味わい深い素晴らしい作品だと思いました。原作は村上春樹の短編小説「ドライブマイカー」。これをあとから知って驚きました。ちょうど今私は村上春樹の小説にドハマりしていたからです。遅ればせながら。本作は村上春樹の文学世界を何ら損ねることなく綺麗に映像に落とし込めています。村上春樹の小説を読み終わった時に感じる余韻と同じものをこの映画でも感じました。
2021年公開 監督濱口竜介 カンヌ映画祭脚本賞を含む3部門で受賞。
薄暗い部屋。裸で抱き合う男女。男は本作の主人公家福、女はその妻の音。音がベッドの上でなにやら物語を語っている。二人の間には一人娘がいた。娘は4歳の時に他界してしまう。音はセックスの中から物語を生み出し語るのだ。二人で紡ぎだしたその物語は娘を亡くした悲しみを覆う役目を果たしていた。
それから主人公は愛する音も失うことになる。くも膜下出血による突然の死だった。この物語は主人公の深い喪失感が一人の少女との出会いにより解放されていくストーリーだ。
この映画の面白いところは詩的な要素が至る所にちりばめられているところだ。
主人公は舞台の演出家であり役者である。妻を失ったことで彼は舞台に立つことが出来なくなる。舞台に立つと自分がチェーホフの世界に引きずり込まれそうな恐怖に苛まれるのだ。彼は演出家としてチェーホフの戯曲「ワーニャ叔父さん」を作り上げていく。その舞台のキャストは日本人以外に韓国人、中国人、フランス人等で構成され、それぞれの母国語でセリフを話す。中には手話を使うものもいる。
だから劇中でのセリフの掛け合いが日本語とフランス、日本語と中国語あるいは手話といった具合に様々な言語が混ざり合う。そして当たり前のように劇が進んで行く。
この映画の特徴として登場人物のほとんどが表情に乏しく色がない。感情が取り外された人形のように。カタコトの日本語や様々の国の言葉が使われる。
四国の青い海、赤い車ターボ900、タバコ、日本海の黒い海、北海道の雪景色が登場する。私は村上春樹の小説に出てきた言葉を思い出した。
「現実はすべてメタファーだ」
私はこの映画を見終わったあとに自分がなぜこの映画に強く心が引き込まれたのか考えた。
よくわからない。
映画の中に登場する日本人でずっとセリフが棒読みの女性がいる。その棒読みにまったく違和感がない。
一つ一つの意味がよくわからない。意味などないのかもしれない。そこで私は途中から言葉を追うことを辞めた。意味を考えるのを辞めた。ただ流れる言葉や映像をありのままに受け入れた。流れるままに。そしたら一つ一つが心地よく自分の内側を満たしていく。美しい詩のように。心地よい音が心に響く。
これが村上春樹の世界だと思う。
この映画の重要人物の一人である色彩を持たない23歳の女性。主人公のドライバーを務めている。彼女もまた深い喪失を抱えている。主人公は彼女のドライブはどうかと人に訊ねられこう答えている。
素晴らしいと思います。加速も減速もとても滑らかでほとんど重力を感じません。車に乗っていることを忘れることがある。いろんな人が運転する車に乗ったけれど、こんなに心地いいのは初めてです。彼女にドライバーを頼んでもらって良かったと今思っています。
めったに人を褒めない主人公が色彩を持たない女性の運転を評して言ったセリフ
この映画を見る人はよくわからないままにこの映画の世界に引き込まれていくのではないだろうか。主人公が乗っていることも忘れる赤い車ターボ900に乗り、心地よく世界が流れて行くように。
この監督の映画を私は初めて見たがよくここまで村上春樹の世界をうまく再現してみせたものだと感心する。
最近、日本映画は中身がないものばかりで終わってるなんてことを耳にする機会が度々あった。実際に私もそれに近い印象を抱いていたが。
同じように感じている人が、もしいるのなら是非この映画を見てもらいたい。
心に響く
映画「ドライブマイカー」
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